平安時代より千年続く 明星神社
当神社の由緒は、明治時代に大規模な火災で史料が焼失したため、その詳細は不明な点が多いのですが、平安時代の『延喜式(えんぎしき)』という書物にその名前があることから、古くからこの地で篤(あつ)く信仰されていた神社であろうと思われます。
『延喜式』とは、時の朝廷(現在の内閣にあたる)が定めた政治の仕組みを記録した文書であり、これに神社名が記載されているということは、当神社が国家により保護運営されていた格式の高い神社であったことを示しています。 当神社が鎮座する明和町明星地区は古来より農業が盛んな土地であり、その地に千年以上も前から産土神(うぶすなかみ)として鎮座している当神社は、五穀豊穣の守り神として、また疫病封じの神さまとして いまも里の人々からの信仰を集め、またそれに支えられているのです。
当神社の御祭神

当神社は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を主祭神に、そして天照大御神(あまてらすおおみかみ)、さらに建速須佐之男命と天照大御神の御子神 五男神三女神 全十柱をお祀りしています。 かつては津島(つしま)社、牛頭天王(ごずてんのう)社とも名乗った時期もあった当神社ですが、これらの御名前は建速須佐之男命の別名であり、このことからも当神社が建速須佐之男命に大変ご縁の深い神社であったことを伺い知ることができます。
当神社と伊勢神宮、斎宮(さいくう)とのつながり
天照大御神(あまてらすおおかみ)と豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀りする伊勢神宮、また古えに天皇に代わり神宮に仕えられた斎王(さいおう)が住まわれた斎宮、これらにともに近い地に鎮座する明星神社は、土師器(はじき:素焼きの焼き物)を制作して、これを神宮と斎宮に献上していた、という言い伝えが残っています。
現在の当神社にはそうした痕跡は残ってはいませんが、周辺に土器製造の遺跡が多いこと、また当神社より1kmほど南の地には、今でも伊勢神宮のために土器を製造して納めている神具土器調整所もあることから、伊勢神宮および斎宮と当神社がひときわ深い関係があったことは、十分にあり得ることと思われます。
